あすは


2012 . 10 . 06 00 : 45  その他
文紡の一部で出雲に行きます。
文化に触れ、楽しんでまいり・・・たかった。
私、金欠により出陣ならず、エア出雲するしかありません。っていうことで、以下、出雲日記。

・・・ということももちろんなく、この暗さは残念すぎるだろう、ということで提出しそこねた、
人権週間号没原稿をあげようかと思います。

では、以下から没原稿
嫌いですか好きですよ
                      

 あの人の人に好かれるところ、人前にも臆さず立てること、人といることに目一杯力を注ぐところ、愛嬌のあるところ、そういうところが素晴らしいと思っております。
私のような変人は、そのようなことはできず、まるで自分が優れているかのように自らの価値観をこうであると決め付けている。世間とはずれていることを理解しつつそれが間違っているが、私はそうとしか生きられないし、そうである自らを許している。間違っていると理解してそれを貫いているから、むしろ世間がずれている、という顔をしている。その癖、実はそれを理解しているから、ずれている訳ではなくて、私が間違っているのだという妙な理論を、まるで自分があたかも真っ当な人間であることを主張するかのように振りかざすので、まるでよくない。真っ当な人間を真っ当であれるのはいいなぁなどとほざいて何か眩しいような顔をして見つめるなどということもよろしくない。
あのように馬鹿になることを敬遠し、私には私の道があると言わんばかりの顔をして、冷静を装っているふりをして他人に媚を売るようなこともよくない。それでいて、そうできる人間に対して妙にずれた羨みと嫉妬をぶつけるのがなお良くない。
 しかし思うことももちろんある。そのような美しい人々を眺め、素晴らしいと言うことのなんと簡単なことかと。古くから言われていることです。
 白河の 清きに魚 住みかねて 元の田沼の 濁り恋しき
 魚ですら、美しすぎる場所に住むことなどできないのです。ましてやこのように複雑化してしまった私達がどうしてこのような世界で美しいだけのものを求めるでしょうか。あぁ、汚くも美しいこの世界。そうです、私は美しいものに焦がれつつ、同じくらいその美しさの裏に醜さを求めているのです。
「あの人は素敵な人ですね、私も大好きです」
 それでも世間体など考え、くたばってしまえとも、二度と顔を見せるなとも言わず、戯言を呟く私はどれほど醜く愚かな生き物なのでございましょうか。
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